4月の終わりの夜は春といってもまだ寒いです。その夜すでに11時をまわったころ、私は自分の部屋に帰る途中でした。
あとひとつ角を曲がればというとき、「ミー」と一言、子猫の声に呼び止められました。でもそこには山と積まれたゴミの袋があるだけで姿は見えません。明日はゴミの日です。私は「ミャー」と声を真似して呼び返してみました。するとゴミ袋のひとつから「ミー」と返事がありました。
その袋は軽く口がしばってあったので開けてみると、本当に小さな子猫が3匹、並んで横になっていました。3匹でも片手の平に乗るくらい小さくかったのです。きっと生まれてすぐだったのでしょう。誰が捨てたのかわかりませんが、申し訳のようにタオルが1枚底に敷かれていました。
私を呼んだのは茶色の子猫でした。でも、また声をかけてももう静かになってしまいました。私はどうしていいかわからなくて、ちょうど持っていたパンを小さくちぎって口の前に持って行ってみたけれど、何も反応しません。でも明日はゴミの日です。選べる答えはほとんどありませんでした。ひとまず部屋に荷物を置きに行き,私の居たマンションは動物を飼ってはいけないことになっていたのをどうしようかと考えたけれど、やはり答えはひとつしかありませんでした。私は空の箱を探し出し、暖かくできるようにタオルを敷いて、子猫たちを部屋に連れて来ました。
でも子猫たちはいつまでも寝ているわけではありません。朝薄暗いうちから、お腹が減ったとミャーミャー言い始めました。でもみんな、起きてもまだ目蓋が開かないのに気がつきました。ほんとうに生まれて間もなくだったのです。まず家にある牛乳をあげてみました。でもお皿に入れても、どの子も舐めることもできずにミャーミャー泣き続けます。ストローをスポイトにして口に入れてみたけど、どうも違います。
猫のいる友だちに電話して相談しました。友だちは、猫用のミルクと哺乳瓶が必要なことを教えてくれました。すぐに猫用ミルクと哺乳瓶と参考書を買って来てからは、毎日4時間ごとにミルクを飲ませ始めました。
ちょうど猫たちみんなが1歳になったころ、ある朝みんないっしょに椅子の上に並んで座りました。すぐにカメラを出して記念写真を撮りました。私は猫たちみんなに、最後まで世話をすることを約束しました。
私はこの子たちに名前をつけませんでした。猫同士がどうやってしゃべるのかに興味があったから、邪魔したくなかったのです。人間が名前で呼んでも、猫同士は同じ名前でたがいを呼べませんから。でも人に説明するときには困るので、小さいの、茶色いの、丸いの、と仮に呼んで説明しました。
小さいのは、ヨーグルトとバナナが好きです。
茶色いのは、バナナとミカンが好きです。
丸いのは、焼き海苔と鰹節が好きです。
みんな同じごはんを食べているのに、好きなものが違います。
ちょうどみんなが10歳になった年の秋の10月、小さいのが食欲をなくして、吐くことが何日か続きました。動物病院に連れて行くと、とても具合が悪いことがわかりました。腎臓結石という病気だったのです。でもそのとき、困ったことに私はアメリカに行く仕事がありました。悩んだあげく予定をできるかぎり短くして、小さいのを入院させて出発することにしました。
でも入院のあいだひとりでいるのは心細いかもしれません。友だちにタロットカードを読んでもらって、小さいのがとんなふうに思っているか聞きました。するとタロットは、小さいのは他の兄妹たちよりももっと私のそばに居たくて、私が3匹とも対等にあつかうのに少し不満だったのを示しました。友だちは、小さいのとふたりだけで過ごす時間を作るように言ってくれました。部屋の戸を閉めてふたりだけで1時間くらい話しました。小さいのはとてもうれしそうな顔をしていました。でもしばらくして私が一度部屋を離れて戻って来たら、何かを決めたようにきびしい顔つきになっていました。
出発の朝は最後まで出かけるのをよそうかと迷ったけれど、覚悟して小さいのを動物病院に連れて行きました。一瞬もう会えなかったらどうしようという気持ちが横切りました。アメリカに着いて2日目,獣医さんが国際電話で小さいのが亡くなったのを知らせて来ました。獣医さんは、小さいのを自宅に連れて帰って最後まで看病していてくれました。
私は悲しくて何をしていいのかわかりませんでした。飛行機の予定が変えられなかったので、あと3日間アメリカにいなければいけません。小さいのが亡くなった翌日は、ホテルのロビーのソファに座って何もしないでいました。すると、足下の目の前に太陽の光が射してきて、その中に小さいのが座っている姿が見えました。じっとたたずんで私の方を見て微笑んでいました。よく見ようとすると何もありません。でも、あの子が本当にそこにいるのを感じました。
小さいのの亡骸は、獣医さんに頼んで傷まないように凍らせておいてもらいました。日本に戻ってから、小さいのを迎えに行きました。思ったよりも小さい箱に入ってしまったのに驚きました。部屋につれて帰って箱を開けると、苦しそうな顔のまま凍っていました。茶色いのと丸いのには、何があったかを説明してあげました。2匹ともしばらく、凍ったままの姿を眺めたり臭いを嗅いだりしていたけれど、何が起きたのか理解したみたいでした。でも茶色いのは信じたくなさそうな顔をしていました。
茶色いのは、小さいのの具合が悪いことがはっきりしてからは、ずっとそばに寄り添って心配していました。小さいのが座ったまま動こうとしないと、身体を舐めてあげていました。小さいのが亡くなったのを理解してから、茶色いのは塞ぎ込んでしまいました。声をかけてもあまり遊ぼうとしません。じっと座ったままでいることが多くなりました。
小さいのが亡くなって1ヶ月半ほど経った冬の1月、茶色いのが息をすると、妙に肩があがったりさがったりしているのに気がつきました。気になってすぐ動物病院に連れて行くと、やはり具合が悪くなっていました。膿胸という、胸にリンパ液のような水が溜まる病気でした。
検査しても原因はわかりませんでした。でも放っておくと、胸に水がたまり続けて肺や心臓を圧迫して死んでしまいます。注射器を刺して溜まった水を吸い出すしか治療する方法はありませんでした。しかし、一度水を吸い出しても10日間くらいでまた溜まってしまいます。それからは毎週のように動物病院に通うようになりました。
その年の8月も終わりに近づいたころ、夜私が家に帰って来ると茶色いのと丸いのがいつものように玄関から出て来て迎えてくれました。茶色いのは、少しだけ玄関から出て外を眺めるのが好きでしたが、その夜はやや苦しそうなのがわかります。次の朝すぐ動物病院に行くことにしました。
ところが、朝になって茶色いのが私を起こしに来ると、すでに口を開けて苦しそうに息をしています。私はすぐ出かける用意をして待ち動物病院が開いたらすぐ電話して、連れて行くことを伝えました。
茶色いのをそっとペットキャリアに入れて外に出ました。茶色いのは自動車の音が嫌いでした。まだ朝だから、道路はすごく渋滞してうるさいのです。早く静かな通りに入ろうと急ぎました。でも、2つ角を曲がって静かな場所に入ったとき、茶色いのは身をよじらせはじめ、一瞬引きつると手足が突っ張り始めました。撫でても揺すっても突っ張ったまま、何かが起きたのが明らかでした。
動物病院までは5分もかからないはず。私は走って病院に駆けこみました。獣医さんはすぐに人工呼吸と心臓蘇生の電気ショックを試しました。でも茶色いのは、もう硬くなったまま息を再びすることはありませんでした。そのあと獣医さんは、茶色いの胸にたまった水を抜いてくれました。それまでで一番多い水が出て来ました。
茶色のはきっと、小さいのが死んでしまったことがつらくて、胸が押しつぶされそうな気持ちだったのでしょう。そして、それを本当に自分で病気にしてしまったような気がします。もしそうなら悲しいけれど、それほど茶色いのは小さいのを気遣っていました。茶色いのはいつも兄妹を守ろうとしていましたから。好きな誰かのことを猫でもこれだけ気遣うことができるのに、これにも及ばない人間がたくさんいるのは何故でしょうか。
丸いのはひとりになってしまいました。でもそれから6年以上も私といっしょに居てくれました。最後の1年半はあまり楽ではなかったかもしれません。慢性腎不全という病気なのがわかったからです。これは腎臓が弱ってちゃんと働かなくなる病気で、治ることがありません。治療は生きられる時間をなんとかを延ばすことだけです。そして、この病気は10歳を越えた猫の半分以上に起きる病気です。
慢性腎不全の治療は、毎日のように皮の下に点滴液を注射することです。液は皮の裏側から吸収されて、弱った腎臓が働くのを助けます。でも治療をしていても、丸いのはだんだんと痩せていきました。
16歳の年の冬の12月、それまで1年以上落ち着いていた丸いのの容態が変わり始めました。慢性腎不全にかかわって再生不良性貧血という病気も起きたために、血液が薄くなり始めたのです。それからは1週間に1割ずつ血が薄くなっていきました。1月の終わりになると、普通の猫の1/3くらいの血の濃さしかありませんでした。ご飯は食べても、少しだけで休んでしまいます。大好きだった鰹節も少ししか食べません。そのかわり、今までぜんぜん興味のなかった甘いものを食べるようになりました。白あんとレモンクリームのビスケットが好きでした。そして2月になって何日か過ぎたある朝、立って歩くこともむずかしくなりました。
私は、丸いのの命がもう数日しかもたないのを覚悟しました。もしかすると一晩かもしれないと思いました。それでもあきらめる前に動物病院に相談すると、輸血するとしばらく生きられる時間を延ばせるかもしれないことを聞きました。でも輸血は、血液が合わないとその場でショック死してしまうこともあります。それでも、もう、少しでも良いからこの子といられる時間が欲しかったので、輸血することを決めました。
動物病院に住んでいる猫2匹が血液をくれました。全身の血液のほとんど半分を足したことになります。輸血のあと、身体がすぐに暖まってきました。でも家に戻る途中で身体を引きつらせて痙攣しました。
輸血をしてから2日間は、丸いのは食欲も出てよく食べました。でも3日目になると、また起き上がれなくなって、寝たまま意識もはっきりしなくなってしまいました。輸血でも無理なくらい腎臓が弱っていたのでしょう。水は注射器で飲ませました。食べることができないので、糖分をスポーツドリンクであげたら少し起き上がれるようになりました。
でも歩けなくてトイレにも行けないので、ビニールの上にバスタオルを敷いて、寝たきりでも過ごせるようにしてあげました。タオルが湿ってくると、丸いのは何度か小声で鳴いて私に知らせます。そうして私は新しいタオルに取り替えてあげます。
その週の金曜日は満月の数日前でした。夜に点滴してドリンクを飲ませてからしばらくすると、じっと横になっていた丸いのが突然、手足をばたつかせて暴れました。まるで高い所から落ちて何かを必死に掴もうとしているみたいでした。10秒くらいで発作は止まったけれど、何か恐怖を見たように、眼を見開いたままで歯を食いしばっていました。
それから30分くらいして、タオルとしっぽを汚してしまったので、お風呂場にお湯を用意して洗ってあげました。でも私の腕の中で洗ってあげているうちに、長いうめき声を出して手足を突っ張らせてしまいました。まるで何かが抜けて行くようでした。身体はそれでも5分くらいまだゆっくりと息をしようとしていました。心臓もそれから10分くらい動いていました。人工呼吸もしてみました。でも抜けて行った何かは二度と戻って来ませんでした。それが最後でした。
小さいの、茶色いの、丸いの、と3回のお葬式をしました。私の部屋にはその骨壺が三つあります。初めて目が開いたときと同じ順番でみんな旅立って行きました。
友だちが教えてくれた話に、動物は死を怖がらないというのがありました。動物にとっては、死ぬことはもうひとつの別な世界に行くだけのことなので、今生きている世界が辛くなったら向こうの世界へ行きたいと簡単に考える、という話です。もうひとつの話は、先に逝ってしまった動物たちは、天国の入り口で飼い主を待っているという話でした。うちの猫たちのことを想うと、どちらの話もきっとその通りだと思えます。
この子たちといっしょに暮らせた時間は、ほんとうにしあわせでした。もしあの晩、茶色いのが私を呼び止めなければ、この猫たちは一度も太陽の光を見ることが出来なかったでしょう。朝までに寒さで凍えてしまったかもしれません。もし朝まで生きていられても、ゴミ収集車に投げ込まれて押しつぶされてしまったでしょう。でもその前に発見できたから、この子たちは私に10年以上も大切な時間をもたらしてくれました。
耳を澄ましていれば、きっとあなたも小さい命を救うことができますよ。